ごあいさつ

明治29年(1896年)に、私たちの曽祖父がこの地に家を持ってから、1と4分の1世紀になります。電気もガスもない時代に建った家に、10年ほど前まで伯母と伯父が、ほとんど昔のままの暮らし方で住んでいました。そのおかげで、今の時代には貴重な古い家が残されました。
 
曽祖父はお百姓でしたから、畑を持ち屋敷まわりの庭もずいぶん広かったのですが、これだけでも残せたのは幸いでした。祖父がなくなってからは手入れが行き届かず、いつもフキをはじめ野の草に覆われていますが、庭のある家がだんだん少なくなってきた住宅街の中で、貴重な緑のスペースになりました。
 
家は痛みがひどいので、住む人がいなくなったら壊すつもりでしたが、訪れた友人たちの「座っているだけで心が安らぐ。こんなに素敵な場所をいつまでも残して!」という声に励まされて、みなさまに使っていただきながら維持していくことにいたしました。
 
残す決意を固めてからもいろいろなことがありましたが、多くの出会いがあり、心強い仲間を得てここまでたどりつきました。私たちに巡ってきた不思議な幸運を、みなさまにも味わっていただければと思います。

本江聖美 黒川晴美


古民家の歴史

当家の曽祖父以前の戸籍は空襲で焼けてしまったりして、祖先をさかのぼることはできなくなっていますが、過去帳には江戸末期からの名前があります。

元々は今の場所ではなく、池上駅の南西側のあたりに暮らしていましたが、池上競馬場ができることになり、その用地に曽祖父の家がかかっていたため、1896年頃、代替地となった今の場所に移転したと祖父から聞いています。競馬場は3年ほどで廃止になりましたが、池上駅を蒲田方面に向かって出発するとすぐに大きなカーブがあるのは、競馬場のコースをよけた名残だそうです。

父が子供の頃(80年ほど前)には、家から1kmほど先の蒲田駅が見えたと言いますから、ずいぶんとのどかな田園の暮らしだったのでしょう。駅の東側には戦前まで、「蒲田行進曲」で有名な松竹撮影所がありました。そして、ふきの庭の向かいの借家に、当時活躍していた映画監督の島津保次郎が住んでいたことがあり、女優の山田五十鈴などが訪ねて来た時には、ここに寄って縁側でお茶を飲んでいったとか。自慢話が伝わっています。

50年ほど前までは、まだ祖父が家の周りの畑を耕して、いろいろな野菜を作っていました。祖父が作るトウモロコシは、いまどきのスイートコーンのように甘くはなく、小ぶりで白いけれどモチっとして旨味のある種類で、採りたてをかまどで茹でてくれました。私はいつも食べ過ぎて、よくお腹が痛くなったものです。大好きな夏のおやつでした。井戸もあって、野菜を洗ったりスイカを冷やしたり。

1980年代まで、ガスレンジはあるけれどカマドも併用していて、庭の剪定枝を燃料にエコロジカルな暮らしを続けていました。世の常で、畑はだんだん小さくなりましたが、この家に伯父と伯母たちが暮らし続けたおかげで、周りの庭がかろうじて残されました。

祖父は果樹を植え、華道を嗜んでいた伯母たちは花材の残りを庭に下ろしては楽しんでいたので、ふきの庭にはいろいろな植物が混在しています。伯母たちもいわゆる土地活用を考えないわけではなかったようですが、気ままに野菜や花を育て、四季折々の果実を味わう暮らしを手放す気にはなれなかったのでしょう。

父は子供の頃、家の前の庭で野球をしたそうです。今や「ふきの庭」の主のような松や柿が、当時は若木で前庭が広々としていたことを思うと、1と4分の1世紀を通して庭の景色は変わり続けてきたことに気づきます。それでもみなさんが懐かしさを感じる、変わりながら変わらない、そんな自然の景色をもう少しの間、守り続けていけたらと思っています。